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団結権、団体交渉その他の団体行動権に関する労働教育行政の指針について
昭和32年1月14日発労第1号
(各都道府県知事あて労働事務次官通知)
労働教育は、民主化されたわが国における経済興隆のための重要課題として、かねてから貴職の御高配を煩わしてきたところである。しかして、近時わが労働組合運動は著しく健全化してきたとはいえ、なお、重要なる問題について遺憾の点が少くない。わが国経済が既に戦後の状態を脱したといわれる今日、労働組合運動についてもこれが戦後的色彩を払拭し、真に自由にして民主的な国家社会に相応しいものたらしめるため一段の努力を尽すべき時と考えられる。
ついては、労働組合運動の基礎的問題たる団結権、団体交渉その他の団体行動権に関して、今なお労使をはじめ国民一般において、その考え方に明確ならざるものがあり、これがため関係法令の解釈についても混乱があることに鑑み、今般、これに関し別添のとおり労働省の体系的見解を明らかにし、今後における労働教育行政の指針とすることとした。
貴職におかれては、右の趣旨に充分御留意の上、この指針により労働教育行政を強力に推進し、もつて健全なる労働組合運動の発展を期するよう格段の御配慮を煩わしたく、命により通牒する。
記
団結権、団体交渉その他の団体行動権について
第一 労使関係と労働法制
一 労働組合運動は本来自然発生的なものだといわれているが、わが国戦後の組合運動は、占領政策及びその下における労働立法並びに行政の保護育成によるところが大きい。即ち、労働組合法は組合運動によつて生み出されたというよりは、むしろ大部分の組合運動が労組法によつて推進されたといえよう。労組法は、既存の組合運動を規制する目的の下に立法されたものでないことはいうまでもないが、それは、単に組合運動を公認するにとどまらず、それを保護育成する意図の下に立法されたものである。
労働組合の結成、運営は労働者の自由であるばかりでなく、これに対する使用者の妨害や報復行為が禁止されていること、団体交渉が保障され使用者は労働組合を交渉の相手としなければならないこと、しかもこれらの保護が単に裁判所のみならず行政機関たる労働委員会によつて担保されること、労働組合の正当な行為について民事、刑事の免責が確認されていること、労働協約に対しては個々の労働契約に対する優先的効力が付与されていること、等々労働組合に対して法は極めて手厚い規定を設けている。
かような手厚い立法は、いずれの国にも存しないといつて過言ではあるまい。たとえば、大陸法系においては、不当労働行為制度はない。米国においては、わが国や西独に見られるような労働協約の労働契約に対する優先的効力は認めていない。
さればこそ、労組法の改正が異常なまでの争いの的となり、改正の噂に対してすら、労使とも極めて敏感な反応を示し、ことに労働組合は「既得権」を侵害されるおそれありとして強い警戒の態度をとる。そして、現行法については原則的にこれを尊重する立場をとるのである。
二 たしかに、わが国の労働組合で労働法制を公然と否認し、非合法運動を呼号するものは稀である。しかし、それは、必ずしも労働組合が違法な行為をしないということではなく、違法な行為をしていても、それを違法だと自認しないにすぎない場合が少くない。いいかえると、違法な行為を合法であると強弁したり、そこまで行かなくても、合法性の限界を極限以上に押し拡げようとする傾向が強い。
労使関係を規定している労組法等の実体規定は、その取り扱う内容の広汎複雑さに比べると極めて簡単である。そこで、労使の具体的な行為が正当であるか不当であるか、その合法性の限界如何という問題は、法の解釈にまたなければならないのであるが、条文の数も少い上、簡単で抽象的でもあるだけ、強弁の行われる余地が広く、合法性の限界が、ともすれば個々の労使の力関係によつて動かされやすかつたことも否めない。
労組法施行以来十年の間、裁判所、労働委員会、学界は、わが国においては、ほとんど未開であつたといえるこの法の解釈の分野において、貴重な判例、命令、学説を積み上げてきた。それらが、組合運動、労使関係のルールを作り上げてきた功績は決して過少評価されてはならないが、他面、偏向した当初の占領政策や、極左勢力の指導による強弁や合法性の不当拡張の努力に影響されることがなかつたとはいえない。
三 労使関係の判例、命令、学説については、労使双方とも、これを参考とするに当つて考慮すべき点がある。
1 まず、労働判例についていうと、その過半は仮処分手続にかかるものであり、また大半が下級審のものであるということである。仮処分の裁判は、本案の裁判と異つて行政処分的色彩が強く、その時その場における具体的妥当性の方が、法理論の安定性、解釈の精確さよりも重んぜられる傾向が強い。従つて、或る場合に正当・合法とされた行為と同様のものが、他の場合には不当・違法と断じられてもあながち怪しむに足りない。もちろん、労働条件の仮処分では、一般にこの点についての対策が講じられ、他の仮処分事件に比して著しく慎重な手続きが行われているが、仮処分は所詮仮の裁判であつて、これを本案判決と同等に評価することは誤りであろう。また、下級審の裁判例は、最高裁の判例と異つて安定したものでなく、法源性に乏しいことはいうまでもない。労働法については、最高裁の判例はなお少く、勢い、下級審の判例が引合いに出されやすいが、不利な例には目をおおい、有利な二、三の仮処分の例のみに準拠して自己の行動を律することは、妥当を欠くものといわなくてはならない。
2 労働委員会の不当労働行為に関する命令は、判例系列としては、裁判所の前審に位するが、専門機関であるだけに傾聴すべきものがある。しかし、それは、何分労組法第七条の解釈運用という狭い枠に限定されているためにやむを得ないこととはいえ、他の法規とのすり合わせという面において欠陥を持つ。
3 学説についていうと、当然のことながら、労働法が法学の一部門として確立されたのは戦後のことであるから、日もなお浅く、労働法学の体系も、概して今なお確立の途上にあるといえよう。従つて、個々の問題に対する学説も、確乎たる体系に立脚して生み出されたものとはいえないものが少くない。悲しむべきことに、労働法学の分野では、いわゆる「イデオロギー」とか、「立場や側」が巾をきかせているようである。労働法の論議は得てして「労働者側」とか「使用者側」とかに対峙し、不必要に闘争的になりやすく、事の冷静な判断は棚上げしてひたすら特定の側の主張や行為を正当付けることを使命としているかのようなもの、反対側の説に対しては中途半端な議論のまま「反動」とか「赤」とかいうレツテルを貼つて片付けようとするものも少くないといつて過言ではあるまい。
要するに、わが国では労働法の歴史が浅いために、判例にせよ、命令にせよ、また学説にせよ、普遍性、安定性に乏しく、振幅が広い。それだけに一層、労使がいかなる判例、学説を取捨選択するかが重要な問題となつて来るのである。
四 労働法については、しばしばその特殊性ということが論じられる。それは、たとえば、商法の民法に対する特殊性というのと異つて、いわゆる市民法一般に対する優越性として主張されることが少くない。なるほど労働法の規定は、たとえば労働基準法の如く明らかに市民法の修正規定として生まれたものもあるから、生成の歴史あるいは立法の原理に関する限り、市民法に対する特殊性を認めるのは当然である。しかし、法解釈の原理として、市民法に対する労働法の一般的優越性を主張するのは何らの根拠もない。労働法は、他の法規に超絶して罷り通るものではなく、諸法域の諸法と調和を保ちつつ憲法下の法秩序の一環をなすものである。他の法の規定の特別法として明記されているときは格別、単に労働問題なるが故に他の法規を沈黙せしめるべき優位性を持つものではない。
五 さて、法制への依存度が高いことは、わが国組合運動の特質であるが、組合運動ないし労使関係における労使の行為が、すべて法規の尺度で黒白をつけうるものでないことはいうまでもない。しかし、現行法の規制を受けず、又は違法とされないからといつて、社会的な評価を免れるものではない。非合法ではない自由な行為であつても、その行き過ぎに対しては社会は批判を遠慮しない。そしてこの非難に対して合法性をもつて対抗すれば、自由を制限するための立法を招かずにはおかない。ましてや、違法あるいは社会的に妥当ならざる行為について、あえて合法性を主張すれば、社会はこれを明確に違法とする立法を要求してやまないだろう。昭和二十七年における電産、炭労のストライキといわゆるスト規制法との関係は、これを物語つて余りがあるであろう。
六 ともあれ、わが組合運動は、十年の間貴重な試行錯誤を繰り返しつつも、めざましい成長をとげた。今日の組合運動が、十年前と比べて著しく落ち着いてきたことは、何人も否定できない事実である。しかし、それが、今なお理想にはほど遠く、幾多の欠陥を抱いていることも無視できない。これらの欠点は、一部は修正されつつあるが一部はかえつて慣行化しつつある。
もちろん、これらの欠点のうちには、よつて来るところ遠く、必ずしも一朝一夕に改むべくもないものもあろう。しかし、慣行化せんとする欠点のうちには現行法秩序の許容し得ないものもある。法秩序の許容し得ないものの慣行化して行くところには、必ずといつてもよいくらい歪んだ法解釈が存する。歪んだ法解釈は、労働法の特殊性を護符とする。現行の法秩序との抵触に対し、特殊性の護符をかざして罷り通ろうとすることは、看過するわけにはいかない。我々は何よりも法秩序全体から眺めて正しい法解釈を行わなければならない。それが健全なる労使関係のあり方についての最小限の要求である。
しかしながら、単に法に触れないというだけでは、健全な労使関係のあり方ということはできない。法に触れないという最低レベルを越えて、本来いかにあるべきかということを率直に真剣に考えなくてはならない。法には限界がある。よりよき、より健全な労使関係の発達を願う限り、違法とまでいえなくても、望ましからざる点もこれを指摘して、よりよき労使関係への道を明らかにすることが、労組法施行後十年を経た今日における課題と信ずる。
第二 労使関係の基本的な考え方
憲法第二十八条は、勤労者に団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利を保障する。
労働者が労働組合を結成し、使用者と対等の立場で、労働条件を集団的に交渉し決定するということは、自由にして民主的な国家において等しく行われているところである。産業の平和を保ち経済の興隆を図るため、労使関係の円滑を期するには、かくするほかにないことは、歴史の証明するところである。
そこでわが憲法は、これを、単なる自由の領域に放置することなく、勤労者の団結権、団体交渉その他の団体行動権を保障することによつて、憲法上の社会制度にまで高めた。憲法秩序の下、社会の平和を保ちつつ、産業が発展し経済が繁栄して公共の福祉が増進して行くことこそは、全国民の願望である。憲法第二十八条は、まさにこの目的を達成せんとするものにほかならない。勤労者の団結権、団体交渉その他の団体行動権も、これがために保護されているのであつて、断じて、社会、経済の秩序を攪乱変革せんとする革命運動ないしは階級闘争のために保障されているのではない。
労使による労働条件の集団的決定を、わが国のように憲法上の制度とすることなく、自由の領域に放置する方法もあり得よう。この場合においては、労働者の団結、団体行動は、特別な保護保障を受けることもなければ、またその反面、特別の規制も受けず、それぞれ関係法規の枠内において自由であろう。
しかしながら、これを憲法が権利として勤労者に保障するときには、しかるべき保護保障を受ける反面、勤労者はこの権利を社会、経済の平和な発展、公共の福祉のために行使すべき憲法上の重大な責務を負わなければならない。権利が義務を伴うことは、けだし当然であつて、この領域においても変りはない。
労組法は、この憲法の趣旨に従つて、「労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、労働者がその労働条件について交渉するために自ら代表者を選出することその他の団体行動を行うために自主的に労働組合を組織し、団結することを擁護すること並びに使用者と労働者との関係を規制する労働協約を締結するため団体交渉をすること及びその手続きを助成すること」を目的とするものである。このように労組法は、労働組合、団体交渉、労働協約を制度化し、この制度の円滑なる実現を期するため、労働者、労働組合に対する保護なり保障なりを規定している。即ち、この保護保障は、労働者なりその団体なりに、無制限に与えられるものではなく、労組法制定の目的の範囲内において与えられるものである。
労組法が労働者にその団結を擁護する本旨は、労働組合が労働条件の集団的決定、即ち労働協約の締結のために使用者と団体交渉を行うことを予定するところにある。
労働条件を労使が自主的に集団的決定をすることは、自由にして民主的な国家における共通の基本的社会原理であり、その集約的表現が労働協約である。この労働協約によつて集団的な労使関係を安定せしめ、産業の平和を確保せんことを希求して、労組法は、労働協約に、労働者と使用者との関係を直接規制し、個々の労働契約に優先する法的効果を与えている。
かかる特殊な法的性質を持ち任務を帯びた労働協約を締結するための交渉が団体交渉である。従つてそれは、普通一般の交渉とは異る社会的法的意義を持つ。労組法が団体交渉を助成するのはこれがためであつて、使用者に団体交渉に応ずべき義務を果し、労働者には団体交渉権を保障することによつて団体交渉の行われることを担保しこれを助成する。
更に、労使の意見が対立して団体交渉が行き詰まれば、労務提供の集団的拒否が不可避となる。これを認めなければ、労働条件の対等にして自主的な集団的決定への解決の道が開かれないであろう。もちろん、団体交渉の行き詰まりは、国家機関による強制的な仲裁によつても打開しうる。公共企業体等にはかかる争議調整の方途が講じられているが、一般私企業においては、かような強制仲裁は認められていない。けだし、労働条件を労使の自主的決定に委ねることが、自由にして民主的な国家の経済の建前から当然である。そこで一般的には、団体交渉の行き詰まりの場合、労務の集団拒否、即ちストライキが制度上承認されることとなる。
要するに、労組法の保護保障せんとする労働組合、団体交渉、労働協約、争議行為は、それぞれ密接な相関関係に立つのであつて、決して、個々ばらばらのものとして保護保障されているのではない。
第三 労働組合
一 (回顧と現状)
1 戦後わが国における労働組合の発展の急激なることは、世界に類例を見ない。労働組合は終戦時皆無であつたが、今日では、組織率は先進国の国際水準たる四〇%に近く、組織労働者は六三七万人を数える。しかもそれは十年の間に徐々に発展したものではなく、終戦後わずか二、三年の間に極めて急激に伸びたのである。(即ち、昭和二十三年における組織労働者は六六七万、組織率は五四%に達していた。)今日の組合運動の根幹は、量的には、この短い期間に形成されたといえる。
その主たる原因は、占領政策と当時の経済情勢である。
占領軍は民主化の基本政策として、労働組合の保護育成を性急に推進し、国内立法及び行政もこれに従つた。一方、国民経済は戦争によつてどん底に落ち、更に、国民生活はインフレーシヨンによつて窮乏していたので、筋肉労働者たると頭脳労働者たるとを問わず、多数の労働者が文字どおり生きて行くために、組合結成、ストライキ、賃上という途を選んだのは自然であつた。
かくて、労働者の切実な経済的要求と滔々たる民主主義の潮に乗つて、組合の結成とストライキはたちまちにして全国を席捲し、驚くべき急激な組合運動の展開を見るに至つたのである。この間、極左の政治的要素が過激な労働運動の偏向を助長すること極めて大なるものがあつたことはいうまでもない。
以上のように、戦後三年間における組合運動は、量的に今日の組合運動の根幹を形成したのみならず、質的にも極めて大きな影響を与えた。もちろん、十年間の試練によつてその欠点の多くは逐次洗い落されてきた。
2 一方、日本的な労働組合の型はこの時期に作り出され、年と共に定着の度を強めてきている。即ちそれは、労働組合が企業別ないし経営別組織であるということである。十年の間、労働組合は、激しい離合集散をかさねてきたが、企業別組織が根幹であることにおいては終始一貫している。
その原因の主たるものは、やはり占領軍の性急な組合育成政策と当時の経済事情に求められよう。即ち、わが国においては確たる職業別あるいは産業別組織の伝統がなかつたので、労働組合を結成するには、企業別組織をとるのが最も安易な近道であつた。しかも、ホワイトカラーも筋肉労働者も等しく生活に困窮し、企業内の職階、秩序が崩壊していた時に当つて、賃上要求を中心とする待遇改善と、経営民主化の旗印の下に、企業ごとに従業員を組織することは易々たることであつた。かくして、企業別に組合結成、争議、賃上の過程を繰り返しているうちに、個々の企業の特殊性は即ち労働組合の特殊性となり、賃金その他の労働条件の企業別格差は拡大の一途を辿り、もはや超企業的組織の生成を容易には許さないほどのものとなつてしまつた。今日、産業別組織といわれているものも、極く一部の例外を除いては、かような企業別組織の寄り集まりの上に不安定に乗つているものであり、欧米における産業別組織とは内実を異にする。
従つて、労働組合の数は外国に比して驚異的に多く、これに反比例して、一組合当りの組合員数は少い。昭和二十二年における労働組合数二万三千は、昭和三十一年においては三万三千と増大しているのに対し、平均組合員数は二四七人より一八六人へと減少して日本的特性をますます強めているのである。
この企業別組織の特性には、長短相半ばするものがある。
第一に、企業別組合にあつては、組合としては、企業の特殊性、実情をよりよく認識しうるし、企業としては、組合員、即ち従業員の実情を正確に把握しうるから、企業の実態に即した労使関係の改善安定を図ることができる。団体交渉、その他の折衝にしても、組合側の交渉員は原則としてその企業の従業員であろうから、使用者としても立ち入つた話合いを円滑に進めやすいといえる。
労働組合と組合員との関係についても、組合が職場にある組合員個々の意向を充分かつ具体的に把握し、地に足をつけて、組合員の利益を代表した活動をしやすい。超企業的産業別組合にありがちな、組合と組合員との遊離という危険な企業別組合には少ないといえよう。
しかしその反面、賃金その他の労働条件は、国民経済的視野に立つて論ぜられることはほとんどなく、従つてまた、実質賃金の向上方策が賃金の問題として真剣に討議されることも少い。賃金として論ぜられるものは常に名目賃金であり、それも常に企業という枠に限定されるから、勢い企業の支払能力ぎりぎりの額が組合の努力目標とされる。(時には支払能力以上のものさえ求められることもある。)従つて、企業経営の優劣がそのまま労働条件の格差となつて現われ、とりわけ、欧米諸国に例をみない企業規模別賃金格差が形成されるに至つた。
第二に、企業別組合にあつては企業とその労働組合とのつながりが強く、経営共同体的な関係の形成、強化に役立つ。労使は賃金等の分配面においては利害の対立関係にあろうとも生産面においては協力関係にあるのだから、企業別組合であることは、企業を単位とする労使協力関係の維持進展に好適であり、進んではいわゆる経営参加の可能性が生ずる。
しかしその反面、かかる組合は超企業的労働組合に比較して企業からの影響をより直接に、より強く受けることを免れない。まず、組合員の数は、その企業の雇用の増減に左右され、その存立自体当該企業と運命を共にする危険を有するのであつて、労働組合の独立性は著しく弱められざるを得ない。次に、組合員や組合幹部が原則としてすべて同一企業の従業員であるため、組合の運営に対する使用者の支配介入の余地が大きい。従つて、他の組織による組合に比して、御用組合に堕してしまうおそれが多分に包蔵されていることも否めない。
第三に、企業別組合をとる場合には、賃金その他の労働条件等の具体的な経済問題は企業別に決定されるため、その上に位する上部組織は、あえて全産業にわたるもののみならず、個々の産業別のものでさえも、具体的な経済問題について活躍する余地は比較的狭く、統制力も弱い。そこで、上部組織が活溌な活動を志し団結の強化を図ろうとすれば、得てして、具体的な経済問題とはかけはなれた分野にこれを求めがちになる。いいかえると、労働組合本来の活動が困難なのである。上部組織において、個々の労働者の現実から遊離した政治活動が大きな比重を占めていたり、あるいは、具体的な経済問題よりもむしろ観念的な政治論議をめぐる意見の対立抗争から、その離合集散が頻繁に起るのは、かような理由に基くことも少くない。
いかなる型の組合組織をとるかは、もとより労働者自らの決定すべき問題である。現在の組合組織には種々の欠点があろうが、しからばいかなる型が実際に最善かということについては容易に断定できないものがある。要は、現在の組合組織の型に伴う長所短所を正確に認識し、長所を活かし短所を改める努力をすることであろう。
二 (労働組合の意義)
1 労組法にいう労働組合とは、労働者が主体となつて自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を主たる目的として組織する団体又はその連合体である〔組二〕。
かような労働組合が戦前においても存在したことはいうまでもない。今日の労働組合も、社会的実在としては戦前のそれと本質的な差異はないがしかし、法的な地位は趣を異にする。
契約の自由は今日の自由経済の一大原則であるが、労働の分野においてもこれが原則であることに変りはなく、賃金その他の労働条件は国家の手によらずして労使対等の立場で自主的に決定されるべきものである〔基二〕。もちろん、労働者が人たるに値する生活を営みうるより、法は、労働条件の最低基準を設定し、これを強制し契約の自由に制限を加えているが〔基二〕、この基準以上の労働条件については当事者自治の原則が貫かれている。そして、労働条件を実質的に労使対等で決定することは、労働者が団結して労働組合を作り、使用者と交渉することによつてはじめて期待しうる。
労働組合はこのための団体である。即ち、労働組合は、労働者が労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図るところの目的団体である。労組法の労働組合及び労働者に対する保護も保障もまた規制も、この目的の範囲内において行われるのである。
前述した如く、今や労働組合は、放任された社会的存在、自由なる団結にとどまらず、労働条件の決定のための制度、いわば社会自治、労使関係自治の一機関たる地位へと高められたのである。
2 労働組合には、かかる地位に相応しい実体ないしは組織が要求されるが、労組法は、労働組合に対する行政的規制を排除しただけでなく(対比 旧組五~九、一五)、労働組合の組織に対する法の介入を最小限とした。即ち、労組法は、労働組合の組織及び内部運営については立ち入つた規定を設けることなく、ただ、組合の規約について規定を置くのみである。
即ち、労働組合は、一時的のその場限りの団体ではなく、恒久的な団体、社団である以上、規約を有し、この規約に従つて構成され、機関が設置され、組合員の総意が形成され、執行されることは当然なので、労組法はこの規約に対し最低限の望ましい事項を記載すべきことを要求している〔組五〕。もつとも労組法はこれを正面からは要求していない。規約は法の定める条項を欠いていても別段無効でもなければ違法でもない。ただ法の定める条項を欠いていれば、その労働組合は労組法上の手続―労働委員会の労働者側委員の推せん手続―に参加できず、あるいは救済―不当労働行為の救済命令―を受けられず、また法人となれないことになつている。労組法は、このように極めて控え目に、しかも間接的な方法で労働組合に望ましい組織と運営を求めているのである。
規約はいうまでもなく組合内部の規範であるから、規約に違反した組合または組合員の行為のすべてが、直ちに違法ということはあるまい。しかし、規約には組合又は組合員の行動の正当不正当を決する基準たる自律規範もあるから、組合が、使用者あるいは第三者に対して、かかる規約に違反した行為を正当であると主張することはできない。
3 労組法によれば、単位労働組合のほか、労働組合の連合体もまた労働組合である。わが国の労働組合は原則として企業別組織であるが、一企業に二以上の事業所があるときには、事業所別組織が相集まつて企業別連合体を結成しているものが多い。かかる連合体は、団体交渉の主体となり、労働協約の当事者となる場合が普通である。しかし、企業別組織が産業別連合体を結成している場合には、かような連合体が自ら団体交渉を行い労働条約の当事者となることは少い。かように一口に連合体といつても、内実の異なるものがあり、単組に近い統一的行動をとり、自ら団体交渉を行い、労働協約の当事者となるものから、全くの協議体のように、それ自身としては団体交渉を行わず、労働協約の当事者ともならず、ただ加盟組合の足並みを揃えることを主たる任務とするようなゆるい団結のものまである。
労組法は、連合体については、その規約について特則を設けるだけであるから、〔組五Ⅱ3、5、9〕、それ以外は、単組と同じ規定が適用される。しかし、自ら団体交渉を行わず、また労働協約の当事者ともならない連合体にあつては、実際上、労組法の規定の適用について問題の生ずることは余りないであろう。大部分の法律問題は加盟組合として処理されるからである。
かような上部連合体に関する中心の問題は、法律問題よりも事実問題にある。かかる連合体の主たる任務は傘下の単組間の調整、連絡、指導にあろうが、企業別格差のはなはだしい事情の下で、労働条件に関する具体的統一的な、地に足のついた行動をすることが極めて困難であるため、得てして労働条件とは恐ろしく縁の遠い政治的な目標を掲げてみたり、あるいは実情を無視するものであることを自身で百も承知の画一的闘争を呼号して、強気一点張りの争議をあおりやすい。傘下の単組がこの指導にどの程度ついてゆくかは別として、かような指導は、労働組合運動にいたずらに政治的色彩を加え、あるいは、なくもがなの世間の反感を起させるにすぎない。
連合体たる上部組織としては、その使命が傘下の単組の協約締結に必要な指導と援助にあることを自覚し、下部組織の狭い視野からは得られないより広汎な展望と見識の上に立つて、国民経済の実情に即した調整を行うべきであり、かつ、その行動を統御する力を持つものでなければならない。
遺憾ながら、現状においては、上部組織には、鞭と拍車だけで手綱を忘れた騎手との誹りを免れぬものが少くない。
三 (労働組合と組合員―自由なる団結)
1 労働組合は労働者の自由意志に基く団結である。
労働組合は、前記のように制度であるが、法は決してその結成を強制していない。労働組合を結成するか否か、労働組合に加入する否か、いずれの労働組合に加入するか、あるいは労働組合から脱退するか否かは、個々の労働者の自由意思によるべきものであつて、他から強制されるべき筋合いのものではない。
労働組合がその組織を強化するため、一人でも多く加入させようと努めることは、けだし当然のことであるが、それは、労働者や労働組合の啓蒙、宣伝あるいは説得により、あくまでも個々人の自由意志に訴えるのが本筋である。
2 いわゆるシヨツプ制なるものは、自由なる団結の例外をなすものである。それは従業員となり、あるいは従業員たることを続けるためには、個々の労働者の自由意思の如何にかかわらず、労働組合に加入し、又は労働組合から脱退しないことを強制する制度である。いいかえれば、雇入とか解雇という使用者の手を借りて団結を維持強化するという変則的な手段である。
労組法もシヨツプ制を無制限に認めてはいない。第七条第一項第一号但書は、一定の条件の下にシヨツプ制を認めている。この条件を充さないシヨツプ制は否認される。わが国では実際にもシヨツプ制―ユニオン・シヨツプ―は極めて広汎に行われており、労働者側にとつて無条件に有利な如く考える向もあるが、果してそうであろうか。英、独、仏などの国々では、シヨツプ制はほとんど存在せず、また法認されてもいない。わずかに米国タフト・ハートレー法は一定の要件の下にユニオン・シヨツプ制を認めているが、その要件は、わが国よりはるかに厳格である。その効力は、組合費の懲収を担保するにとどまるといつても過言ではない。そればかりか、諸州においては、シヨツプ制に対抗して、いわゆる勤労権―消極的団結権が憲法問題として論ぜられたことは周知の通りである。しかも、米国においては、超企業組織の労働組合が、労働市場を独占して、より有利な労働条件を獲得するためにシヨツプ制がとられたのであるが、わが国のように、労働組合が企業別組織を原則としているようなところでは、市場の独占という機能を論ずる余地がないから、現状ではこの意味におけるシヨツプ制の意義はない。
そればかりかシヨツプ制は往々にして使用者の組合支配の手段に用いられる危険すらある。たとえば競争関係に立つ二以上の労働組合があるとき、使用者は、一の労働組合とのシヨツプ協定に藉口して、他の労働組合の潰滅させることがあるからである。健全な労使関係がある程度確立した上で、この関係を更に安定させるために、労使双方の積極的な意思によつて、シヨツプ制が無理なくとられるならば、それは、労働組合を強化させる充分な機能を発揮するであろう。しからざる限り、シヨツプ協定の価値を肯定するわけにはゆかない。いわんや、争議行為に訴えてまで締結を強制すべきものではないだろう。
3 労働組合は自由なる団結であり、その加入脱退は個人の自由意思に基くべきものであるが、団体である以上、組合員たるものは民主的に決定された団体の意思に服し、統制を受けることは当然である。しかし、その統政権には自らなる限界がある。
即ち、第一に労働組合の統制権が組合本来の目的を達成する限度内でのみ認められることは当然である。これ以外の目的、たとえば、公職選挙において特定の候補者を支持応援するために統制権を行使することは許されるべきではない。
また、労働組合が組合員の基本的人権を侵し得ないことはいうまでもないから、労働組合の統制のため行いうる制裁は、組合員の労働組合に対する権利権限の制限、停止などとすべきであつて、組合員たることの否定、即ち除名を限度とする。腕力沙汰はいうに及ばず、労働者の私生活に干渉したり、自由を侵したり、不当に名誉を傷つけたり、あるいは違約金等を課することは、自由なる団結の本旨に反するであろう。
組合員の除名問題で裁判沙汰になるものが稀でない。労働組合のような非営利団体が、内部問題を自己で処理し得ず、裁判沙汰にまでして裁判所の介入を招くようなことは遺憾なことである。被除名者にも反省すべき点はあろうが、何といつても統制権の濫用が中心問題である。過度の統制は、結局団結自体を破壊する逆効果を生ずるにすぎないことを忘れてはならない。
四 (労働組合の自主性)
1 労働組合は、労働者の自主的な団体である〔組一、二〕。
使用者の利益を代表する者が労働組合に加入すること〔組二1〕、あるいは組合運営に加入すること〔組二1〕、あるいは組合運営のための経費が使用者によつて援助されることは、いずれも労働組合の自主性を害う〔組二2〕。法は、別段労働者の団体に使用者の利益代表者が参加し、又はこれに経費援助を行うことを禁止してはいない。いわゆる親睦会とか、従業員共済会等を罪悪視するのは当らない。これによつて、労働者の利益が増進され、真に労使間の平和が実現されているならば、あえてとがむべきではない。しかし、近代企業においては、結局、かかる団体によつて労使関係の安定を期することはできないので、法によつて、かような団体を制度として保障する実益はない。かかる団体が、たとえ労働組合と称しても、労組法の関知するところではない。また、たとえ使用者と協定を締結しても、その協定には労働協約に認められる法的効力はないし、かかる団体の結成運営自体について不当労働行為を論ずる余地もない〔組五Ⅰ〕。労働組合❜❜❜❜というからには、その組織及び運営が自主的であり、使用者から独立であることを必然的条件とする。労働組合の結成、労働組合への加入、規約の作成、変更〔組五Ⅱ9〕、機関の構成〔組五Ⅱ5〕、労働組合の運営、財政〔組五Ⅱ7、8〕等は、いずれも労働組合が自主的に決定し処理すべきものであることは、労働組合の性質上当然のことであつて、あえて、労組法第五条の規定にまつまでもない。わが国の労働組合は、著しく改められたとはいえ、なおこの点については潔癖を欠く嫌いがある。組合員をふやすことに急なる余り、組合員としての義務の履行を期待し難い者をも組合に入れようとしたり、使用者から組合運営の経費を消極的に受ける❜❜❜のではなく闘い取ればよい❜❜❜❜❜のだという考えが未だ払拭されないもののようである。
2 法は、労働組合の自主性について確認的規定〔組二1,2〕を設けるにとどまらず、自主的な団結及び団体行動を擁護保障するため、これに対する使用者の一定の侵害行為を禁止し、侵害から労働組合を救済する制度を設けている〔組七、二七以下〕。不当労働行為制度がこれである。
五 (労働組合の役員)
1 選挙
欧米の如き産業別ないし職種別労働組合では職業的組合運動家が組合役員に選出されるが、企業別労働組合にあつてはそれは、むしろ例外であつて役員に人を得ることはかなり難しい問題である。殊にホワイトカラーにありがちのことであるが、お義理で組合に入つている者が多いところでは、得てして、不平家とか、公式論者とか、あるいは政治的意図を持つものが役員に選ばれやすい。
企業別労働組合にあつては、従業員としても立派であつて、使用者からも信頼され、真に対等に話し合える者が役員となることが、企業別組合の長所をのばし、労使関係の円滑を期する上において望ましい。
組合員は、選んだ役員が強気一点張りの要求を掲げて、派手な争議を行うことを期待すべきではない。賃上を年中行事と見て、一任期中一争議ということによつて役員の能否を決定するが如きは、はなはだしい誤りであるし、社会全体にとつても不幸なことである。
2 役員の行為、特に会計
執行機関たる役員の行為は、直ちに労働組合の行為である〔法人たる労働組合にあつては組一二Ⅰ、民四四、五三、五四〕。労働組合の規約は、多くの場合、一定の行為には一定の機関の決定を要することを規定している。しかし、この規約に反してなされた役員の行為も労働組合の行為であり〔民五四〕、労働組合が責任を負わねばならぬことに変りない。
特に付言すべきは、労働組合の会計である。労働組合の会計は、一般に必ずしも適正に行われているとはいえないもののようである。帳簿の管理や印鑑の保管が適切を欠く場合が多いばかりか、新聞を賑す不祥事件すら少くない。
また、組合財産は組合目的のために使用されるべきであつて、役員の独断でこれ以外の目的に使用すべきものではない。組合幹部の政党関係によつて政治献金を行うが如きは、組合会計の本旨に反することはなはだしい〔法人たる労働組合にあつては組一二Ⅰ、民四三〕。
法は、職業的に資格がある会計監査人による毎年一回以上の会計監査を予定している〔組五Ⅱ7〕。零細な労働組合にあつては困難な点も存しようが、大組合にあつては決して不可能とはいえない。組合会計の紊乱ないし不明朗が、はなはだしく労働組合の安定を妨げることに鑑み、法の求める規約どおりの運営を励行すべきである。
3 従業員たる組合役員は、従業員たるの故をもつて、使用者から不利益な取扱を受けない〔組七1〕。しかしながら、組合役員たることは、何ら従業員としての地位に特権を生ぜしめるものではないから、役員であつても、一般従業員と同様に労働協約、就業規則、契約等の定めるところに従わなければならない。労働組合が大きくなるにつれて、役員の仕事はふえて来るから、従業員としての勤務の余暇に組合業務を片付けることが難しくなつて来る。このため、わが国の組合組織に企業別のものが多いことと相まつて、いわゆる専従者なるものが、他国に例を見ないほど慣行化されてきた。公務員法、公企労法等においてはこれに関する規定さえある〔国公一〇一Ⅲ、公労七〕。専従者を置くか否かは、全く労使の合意によるべきものであり、使用者が専従者を認めねばならない義務はない。
専従者は、使用者に対して労務の提供を行わないが、従業員の地位を保持する。役職員たることをやめれば、原則として、再び従業員として働く権利を有し義務を負う。しかし、専従者と使用者との法律関係は区々であり、かつ明瞭ではない。それは労働協約、特別の協定、あるいは契約によつて、はつきり規定すべきである。いずれにせよ、労働契約は何らかの形で存続し、従業員たる地位を保持する以上、その限度において就業規則や労働協約の適用を受ける。従つて、解雇されることもありうる。殊に企業整備の場合にはよく生ずる問題である。解雇された場合に、役職員としての地位がどうなるかは、組合規約の定めるところによる。もし規約が、従業員たることを絶対的に組合員の資格としていれば、解雇によつて役員の地位をも失う。
要するに、専従者という慣行は、使用者が組合役職員に対し、役職員をやめた後の従業員たる地位を保障することによつて、その組合活動を保障するにほかならないものであつて、すつきりしない。特に上部組織の役職員に多い職業的組合運動家の場合には、しいて専従者の型をとり、特定の企業の従業員たる身分を存続せしめる必要は全く認められない。
六 (労働組合の活動分野)
1 労働条件に関する活動
賃金その他の労働条件、労働者の待遇等の維持改善その他労働者の経済的地位の向上を図ることは労働組合の主目的である〔組一Ⅰ、二〕。これは使用者との団体交渉により、労働協約の締結によつて達成される。これは労働組合の本質的かつ不可欠の活動である。賃金その他の労働条件について労働組合がいかなる要求を行い、いかにしてこれを実現するかについては周知のように極めて多くの問題が存する。もとより、労働組合がいかなる労働条件を要求するか、使用者はこれを容認するか否か、もしくは、いかなる限度で容認するかは法の関知するところではない。社会常識から見て妥当でないと思われる賃金要求やその他の労働条件に関する要求も、それ自体では法的に不当ということはできない。労使自治とはまさにこのことをいうのである。しかしながら、これに対しては社会の厳しい批判があることを忘れてはならない。国民経済の実情に即せず、消費者にのみ負担を転嫁させるような労働条件は、たとえこれを使用者が容認したとしても、労使自治の行き過ぎないし濫用という非難を免れまい。労使自治は、それが公共の福祉に合致する限りにおいて是認されるのであつて、これにはなはだしく背馳する場合には、その制約は問題とならずにはおかないであろう。
さて、労働協約が締結され労働条件が定まれば、個々の労働者は所定の条件の下に労務を提供して所定の賃金を得るのであり、労働協約の法的効力は最終的には裁判所によつて保障されるのであるが、労働協約に関する労働組合の任務は、その締結をもつて万事終れりとはしない。協約関係の円滑なる維持運営は、使用者と共に労働組合の任務である。労働協約がギブ・アンド・テイクの関係にある以上、労働者側の権利だけを規定するものではなく、その義務をも規定しているのであるから、労働組合が組合自らの義務を誠実に履行することはいうに及ばず、組合員をして協約上の義務を履行せしめ、また協約の趣旨にそつた行動をとらしめることは、円滑な労使関係を保持するのに不可欠のことである。
労働協約の解釈運用について、労使の意見が食い違うことがあろう。労働協約が最終的には裁判所において公権的に解釈されるとはいえ、労使が解釈運用の紛議を直ちに裁判沙汰にすべきでないことはいうまでもないのであつて、まず労使が充分に協議して円滑な解決に努めるべきである。ましてや、直ちに争議行為に訴えるなどは論外である。また、かような問題に備えて、あるいは苦情処理機関を設置したり、あるいは労使紛争処理手続などを労働協約で定めて、迅速円滑な処理の方法を講ずるのが適切であろう。根本的には、かかる紛争の生じないように、労働協約の条項を明確に定めるべきであることはいうまでもない。
要するに、賃金その他の労働条件や労働者の待遇の基準については、労働協約を締結し、これを円滑に運営してゆくのが労働組合本来の任務である。なおまた、労働条件に関する一切の問題を、あらかじめ労働協約に網羅しておくことは、現実には必ずしも容易ではないから、随時新たな問題が職場に発生するのが通常である。そこで組合としては、かような職場の問題、個々の労働者の不平不満であつて理由あるものについては、使用者と協議して適切に処理し、労働協約の不備を補うことも、労働組合の日常の重要な任務の一つである。
2 福利共済活動
福利共済活動は、前記労働条件の改善活動を相まつて、労働者の経済的地位の向上のための活動である。
福利共済活動のみを目的とするものは、労働組合ではないが〔組二3〕、福利共済活動を大巾に行うことは、何ら労働組合たることを妨げない。これに対し、政治活動又は社会運動は、これのみを目的とするものはもちろん、主としてこれを目的とするものも労働組合ではないこととされている〔組二4〕。
今日においては、賃金その他の労働条件に関する問題の中心たる協約締結の活動は、いわば周期的なものであるが、これに対して福利共済活動は日常のものである。法は、労働組合が福利事業を行うことを予定し、特別の規定を設けている〔組二3、七3、九、生協八〕。
即ち、組合員の生活に必要な物資の購入、供給事業、協同施設を設けこれを利用せしめる事業、生活改善及び文化の向上を図る事業、共済その他経済上の不幸もしくは災厄を防止し救済する事業等、いわゆる福利共済事業を協同して行うには、原則として消費生活協同組合法による必要があるが、労働組合がこれを行うときは、同法による制約を受けない〔生協八、一〇〕。
けだし、労働者の経済的地位の向上のための労働条件の改善については、使用者との対立関係を前提とするが、福利共済の面についてはこれを前提としない。福利共済事業は労使協同でも行いうることはもちろんであるが、労働組合は組合活動として行う福利共済基金についても、使用者の経費援助が特に容認され〔組二2、七3〕ている所以である。
また福利共済活動には通常一定の基金を必要とする関係上、法は、組合財政の内に福利事業のための基金の特設を予想し、その独立性を規定している。即ち、この基金を福利目的以外に流用するには、総会の決議を経るべきものである〔組九〕。
法はかかる独立性をもつた基金に対する経費援助を認めているのであるが、広く福利共済活動の名目ならば、いかなる経費援助も不当労働行為にならないというのではなく、実質的に組合運営の経費を使用者が援助していれば、不当労働行為が成立し、あるいは労組法上の労働組合ではなくなる場合がありうる。
福利共済活動が、労働組合の団結の強化、労働者の連帯意識の向上に極めて大きな役割を果すものであることはいうまでもない。しかし、少くとも今日までのところ、わが国の組合活動においては、福利共済活動はかかる機能を営んではこなかった。団結強化の手段をもつぱら賃上争議やシヨツプ制に求めていたのであつて、それに対しては根本的に疑問がある。団結を強化する無理のない手段としても、福利共済活動は再認識されるべきであろう。
3 政治活動
労働組合は、労働者の経済的地位の向上を目的とする団体であつて、政治団体ではない。労働組合が政治活動を行うのは本来筋違いである。国民の政治への参加は、別個な法制によつて定められている。福利共済活動と異つて、政治活動の分野においては、労働組合に対して特殊の地位は認められていない。ただ、政治活動ないし社会運動との境界は必ずしも明瞭でない場合があり、労働条件改善のための活動が政治活動、社会運動とつながりを持つ場合がある。従つて、法は、この範囲内において労働組合が副次的にかかる運動を行つても、労働組合たることを否定はしない。しかし、それは副次的に行う場合に限られる。政治運動又は社会運動のみを目的としていなくても、主としてこれを行うものは労働組合ではない〔組二4〕。政党に従属し、労働組合の自主的な意思決定ないし行動が常に制約されているが如きものも、その労働組合たる資格を否認される。
法が労働組合の副次的な政治運動、社会運動を予想しているといつても、それは、かかる運動を行つても労働組合たることに変りないというにすぎないのであつて、決してこれを保護助成しているわけではない。
わが国の労働組合、特に上部組織の離合集散が、特定政党とのつながり、政治的イデオロギーの対立、労働組合の政治活動を契機としている点が顕著であることに鑑み、労働組合と政治活動との関係は深く反省すべきものがある。
第四 不当労働行為制度
一 (不当労働行為制度の沿革と意義)
1 不当労働行為制度は、そのらんしようをわが国独自のものに求めうるであろうが、現行制度は、占領軍の協力な指導によつて、範をワグナー法にとつて規定されたといつて差し支えない。
いうまでもなく、ワグナー法は、米国のニユーデイール政策の一環であつて、自主的労働組合を保護育成し、団体交渉を活発化して賃金を引き上げることにより、労働者の消費購買力の増大を図り、もつて経済の拡大、景気の恢復を図る使命を帯びていた。この結果、同法施行の前年には三六〇万人にすぎなかつた労働組合員は、五年後には八三一万人、十年後には一、三九九万人に増大し、他の政策と相まつて賃金を引き上げ、景気を恢復したことは周知のとおりである。
しかし、労働組合はやがて保護育成の要を認められないほど強大なものとなり、かえつてその行き過ぎの方が目立つて来るに伴い、労働組合のための保護❜❜❜❜❜❜❜❜❜❜もさることながら、次第に労働組合からの保護❜❜❜❜❜❜❜❜❜が問題化し、ついに一九四七年タフト・ハートレー法が、使用者の不当労働行為を禁止するにとどまらず、ほかに新たに労働組合の不当労働行為、即ち労働者に対する不当な抑圧強制、差別待遇の強要、団体交渉の拒否、二次的ボイコツトや繩張争いのストライキ等を禁止するに及んで、不当労働行為制度は、労働組合の保護育成を目的とするものから、労使双方の不公正労働慣行を禁止し、労働関係の円滑化を図る制度へと変質した。
2 わが労組法は、ワグナー法の不当労働行為制度をこそ受継したが、当時よりこの方、ワグナー法の背景たるニユー・デイールに類する政策がとられたことはないし、また、とりうる事情にもない。即ち、国際収支の均衡によつて経済規模を制約されざるを得ないわが国経済においては、米国のように、労働組合を保護育成して賃金を引き上げ、労働者の購買力を増大させることを軸として経済規模の拡大を図ることは、原則的に不適当だからである。従つて、わが不当労働行為制度は、ワグナー法のような政策目的を持たない。事実、この制度によつて労働組合は育成されなかつた。現行制度施行前年における組合員数六六七万人は、今日約六三七万人に減少している。また、今日の経済復興が、決して消費購買力の増大政策によつてもたらされたものではないこともいうまでもない。
3 しからば、わが不当労働行為制度の意義は何に求めるべきか。
既に述べたとおり、労使が団体交渉によつて労働条件を集団的に決定することは、現代の自由にして民主的な国家における共通の社会原理である。労働問題に関する先進諸国では、あえて法の規定にまつまでもなく、使用者は労働者の団結を尊重して侵さず、これを相手として交渉を行つている。いわんや、憲法において労働者の団結権、団体行動権を保障し、労働条件の集団的決定を憲法上の社会制度としているわが国においては、不当労働行為制度をまたなくても、使用者が団結権、団体行動権を尊重すべきことは当然であり、かつ、これらの権利が裁判所において保護尊重を受けるべきことも当然である。たとえば、労働組合に加入したことの故にする差別的解雇は無効とされるであろう。
わが不当労働行為制度は、これによつて全く新たに団結権、団体行動権の保護保障を創設するものではない。この点は、憲法に団結権、団体行動権の保障規定を持たない米国とは趣を異にする。
わが不当労働行為制度の設けられた意義は、憲法第二十八条の目的をより効果的に担保せんとするにある。労組法第一条の宣言するところもこれと異らない。即ち、団結権、団体行動権を侵害する使用者の行為の類型を明確にして、これを禁止し、その違反に対しては裁判所による権利保護に加え〔組二七Ⅸ〕、行政委員会による簡易迅速な救済措置が講じられているのである。
4 不当労働行為制度は、労使関係の平和的かつ円滑な進展に寄与するよう運営されるべきであつて、争議行為の原因たらしめるべきではない。不当労働行為の禁止規定は、決して労働組合の争議行為に大義名分の旗を授けて、これをあおることを目的としているものではない。団結権、団体行動権に対する使用者の侵害を不当労働行為制度によつて救済している以上、労働者側が争議行為による自力救済を図る必要はない。しかるに今日までのところ、労働者側が不当労働行為を争議行為に訴えて解決せんとする慣行は、一向に改まらないし、異とされてもいない。なるほど労働委員会の手続は迅速化されたとはいえ、救済の申立から救済命令の発せられるまで、なお六月を要する現状においては、労働委員会による救済手続と、争議行為が並行してとられることはやむを得ないともいえようが、手続をかくも遅らせている原因の一端が、実は労働者側の実力救済至上主義にもある。労働者側が、労働委員会ないし裁判所による救済手続を副次的なものにすぎないものとし、問題解決の鍵を争議行為に求め、労組法による救済手続は、せいぜい労働組合の実力行使が失敗に帰した後の始末に役立たせているにすぎない場合が多い現状においては、その手続を迅速にすることを望み難いのではなかろうか。
5 労組法は、使用者の不当労働行為のみを規定している。しかし、団結権、団体行動権に影響を与えるからといつて、かかる使用者の行為のすべてを禁止しているのではない。即ち、それは使用者の正当な行為を禁ずるものではなく、また、労働者側の不当な行為までも保護するものではない〔組七1、2〕。
この点において制度の実際を顧ると遺憾な点が少くない。労働組合の正当な行為という範囲が不当に拡張されることが少くなく、はなはだしきは、不当労働行為制度は労働組合の神聖不可侵権を保障すると考えられる向すらある。
労働組合の行為の正当性の問題は、不当労働行為制度の中心問題であるが、それは、法の目的に従つて判断されるべきである。即ち、労働者の経済的地位の向上のため、使用者と労働条件について交渉するという目的に関係する行為という枠内において問題となりうるのであつて、それ以外の行為は、労組法の関知するところではなく、それぞれ関係法規によつて決せられるべき問題である。
6 労働組合の発達がすでに先進国並となり、労働組合の活動の行き過ぎについて問題の絶えない今日なおも労働組合の行為の正当性の枠を不当に拡張せんとすることがやめられないならば、タフト・ハートレー法の如く、労働者側の不当労働行為を規定する必要ありという議論が頭して来るのも、けだし当然といわねばなるまい。
しかし、現行法についても、掘り下げて行つてみると、実際上あるいは結果的には、労働者側の不当労働行為を禁止している趣旨と考えるべき規定もある。
まず第一に挙げうるのは、使用者の労働組合に対する経費援助の禁止規定である。事実、経費援助が不当労働行為事案として労働委員会に救済❜❜が申し立てられた事例は極めて稀である。従つて、経費援助が禁止されていても、これに違反した使用者の行為に対して救済命令が発せられることはまず考えられないことである。しかし、法は明らかに経費援助を禁止しているのであるから、使用者が経費援助を行うことは違法である。しかる以上、およそ使用者に違法不当行為を要求する労働組合の行為は、到底正当とはいえないのであるから、労働組合は経費援助を使用者の要求することも不当であるという解釈とならざるを得ない。組合役員の給与とか、ストライキにおいて組合側の負担すべき組合員の生活費まで、すべて使用者に負担せしめていた昭和二十四年までの弊風を改めるために経費援助の禁止規定が設けられたことを考えると、この禁止は単に使用者に対してでなく、間接的に、そして実質的には労働組合に対して向けられているのではなかろうか。
また、シヨツプ制についても同様のことがいえよう。即ち、労働組合が組合に加入しない者、組合を脱退し又は組合から除名された者の解雇を使用者に要求しうるのは、法の要件に適合したシヨツプ協定のある場合に限られ、しからざる場合における解雇要求は、よほどのことがない限り、正当とは解されないことになる。
二 (不当労働行為の類型)
1 不利益取扱及び不当な雇用条件の設定
不利益取扱とは、解雇、転勤、降給、降格、減給、出勤停止、譴責等、労働者にとつて経済的精神的に不利益な取扱であつて、法律行為のみならず事実行為をも含み、作為たると不作為―昇給せしめないこと等―たるとを問わない。何が不利益取扱であるかについては、個々の場合の実情に即して判断すべき問題であるが、従来余り争いのなかつたところである。この事案における争いの焦点は、不利益取扱と組合結成、組合加入、組合活動との因果関係であるが、それは事実認定の問題であるのでここでは立ち入らない。
労働者が労働組合に加入しないこと、又は労働組合から脱退することを雇用条件とすることは、それ自体として禁止されている。(この条件に基いて実際解雇が行われると否とは関係がない。即ち、この雇用条件に基き、労働組合に加入した者、又は労働組合から脱退しない者を解雇すれば、それは不利益取扱の問題となる。)また、かかる雇用条件の設定は、雇入の場合に限らず、雇用継続中においても禁止される。労働組合に加入することを雇用条件とすることは、労組法第七条第一号但書の条件の下にのみ許容される。この条件をそなえていなければ、かかる雇用条件の設定は、それが労働協約によると契約によると否とにかかわらず、法の禁ずるところである。
2 団体交渉の拒否については後記(第五、四)参照。
3 支配介入行為については、不利益取扱の場合と異つて、具体的に何をもつて支配介入と解するか、争いの多いところである。特に、使用者の言論の自由との関係については問題が多い。使用者の正当な言論の自由の行使が、結果的に労働組合の結成運営について影響があつたとしても、これをもつて、不当労働行為とはいえない。特に不当な威圧や利益誘導を伴う内部干渉にわたらない限り、使用者は労働組合の事情を調査し、あるいは労働組合もしくは組合員に対し自己の所信を述べ、労働組合の主張を反駁したり、その非を指摘したり批判することは、何らこれを禁止すべき理由がない。法は、決して労働組合の神聖不可侵を規定しているのではなく、団体交渉の相手方としての既述の範囲における正当な自主性を保障しているのである。なお、労組法第七条第四号は、むしろ労働委員会の機能を保護する目的のものであつて、他の規定とは異質のものであり、また実際にほとんど問題となつていないので省略する。
第五 団体交渉
一 (回顧と現状)
戦後の労働組合組織が、無の状態から出発したことは既に述べた。しかし、これは決して組織だけの問題ではなかつた。組合活動、殊に団体交渉についても、その意義あるいは目的について明確な認識を持たず、はなはだしい誤解の生じることも避けられなかつた。この新しく保障された制度の運営に、始めから完全な規律なり秩序を求めることは、当時の混乱したわが国の国情の下では、無理なことであつたといえる。
当時において団体交渉とは、多衆の力によつて使用者を威圧することであるかのように考えられ、吊し上げや監禁、脅迫や名誉棄損は、団体交渉にとつては日常の茶飯事、否、交渉に伴う必然事であり、労働組合の正当な行為の範囲に入るとすら考えるものが多かつた。
要するに、当時の団体交渉が時の勢の赴くまま感情の激するままに、相手方の自由な意志の発表を抑圧し、自己の主張を押し付けるための場と化していたといえるのであり、わが国の団体交渉が、程度の差こそあれ、おおむねこのような悲しむべき状態から出発したことは明らかである。
もちろんこのような状態が今日になおそのまま持続されているわけではない。この十年の間に、かかる暴力的常軌逸脱的行為が団体交渉の場から消滅し、漸次平和的な秩序あるものに代つてきたことは事実である。これは、その間の社会事情の安定をもさることながら、何としても労働組合の大きな成長にその功を帰すべきであろう。
しかしこのようなことは、いつてみれば、団体交渉というに足りるところの最低限の要請であるにすぎず、むしろ団体交渉以前の問題である。団体交渉については、考えるべき問題がなお多く存するのであつて、労働組合の成長は、今後、労働組合がこれらの問題にいかに対処するかにかかるところ極めて大なるものがあろう。
二 (団体交渉の意義)
団体交渉とは、その本質においては、労働組合と使用者(又はその団体)とが労働協約の締結のために行う交渉をいう〔組一Ⅰ〕。労組法における団体交渉とは単なる事実行為にとどまらず、法律上の制度であり、労働者側にとつては権利の面を持ち、使用者側にとつては義務の性格を帯びる〔組七2、二七以下〕。団体交渉を法律上の制度としている国は、わが国と米国等少数にすぎない。国によつては、団体交渉という法律概念すら存しないものもある。
しかるに、わが労組法が特に団体交渉についての規定を設け「団体交渉すること及びその手続を助成」しているのは、既にのべたように賃金その他の労働条件を使用者(又はその団体)と労働組合間の自主的決定に委ねることが、労使関係の安定を維持するに、最も有効なものとして価値を認めたからであつて、法は使用者が団体交渉に応ずべきことを義務付けることによつて、その自主的決定―労働協約に至る道程をも制度化したのである。「使用者と労働者との関係を規制する労働協約を締結するための交渉」こそ、法の保護助成せんとするところの団体交渉の本質である。
労組法の保護助成せんとする団体交渉とは、決して単に労働組合という団体の行うすべての交渉という意味ではない。たとえば、個々の労働者の具体的個別的な人事の処理や重役の退陣要求に関する交渉等は、法の助成せんとする団体交渉ではない。また交渉であるから、単なる非難、抗議、問責、謝罪要求、嘆願、宣告、通告等一方的な意思や観念の表示が団体交渉でないことはもちろんである。
なお、団体交渉の団体という言葉は誤解を招きやすいが、賃金や労働条件等労働者と使用者の関係を、個別的ではなく、集約的統一的に交渉するということであつて、何ら多衆が列席する交渉という意味を持たない。即ち個々の組合員がばらばらでなく、代表者によつて一元的に交渉を行うということである。
三 (交渉権限)
個々の団体交渉について何人をして交渉に当らしめるかは、労使それぞれの内部問題である。使用者は、労働組合の自主的に選んだ交渉員を、正当な事由なくして忌避することはできない。労働組合の代表者、即ち労働組合を代表すべき役員は当然交渉権限を有し、使用者がこれを争うことはできない。交渉権限は、別段これを労働組合の代表役員のみに限定する理由はないから、その他の者にこれを委任できるのは当然である〔組六〕。ただし、この場合、使用者が要求するときは、権限が委任されたことを立証しなければならない。交渉を行う権限には、交渉を妥結する権限を含ましめるべきである。
四 (団体交渉の拒否)
1 使用者は、その雇用する労働者の代表者と団体交渉をすることを、正当な理由がなくて拒んではならない〔組七2〕。
使用者が交渉を拒否することは、憲法第二十八条の趣旨に反し、社会自治の制度を否定するもので、もつてのほかの態度であるばかりでなく、なくもがなの紛争を捲き起こす因になるにすぎない。
いかなる場合が団体交渉の拒否といえるかは、具体的に判断すべき問題である。文字どおり交渉を拒否する旨を答える場合はいうまでもないが、交渉の申入に対して妥当な期間内に応諾の返答をしない場合、不当な条件を付して交渉に応ずる場合等はこれに準ずるものであろう。また、形式的には交渉を行つても、相応の権限を持たない職員をしてこれに当らしめ、単に組合の要求を聞きおくというにすぎない場合、要求には応じられない旨のみを述べて組合側にこれを納得せしめようともせず、また対案を提出しようともしない場合、あるいは一方的に発言して組合側に何らの発言の機会を与えない場合等も、実質的には団体交渉の拒否であろう。
団体交渉の拒否は不当労働行為であつて、労働委員会による救済命令が発せられる。団体交渉は労働協約を締結するための交渉であるが、法は、使用者が団体交渉の申入れに応ずべきことを強制しているにすぎず、労働協約に特定の内容を規定すべきことを強制していないのはもとより、その締結自体を強制しているものでもない。従つて、労働組合の要求を容れ得ないときには、使用者は、それを団体交渉において労働組合に説明し納得させることに努めた上で要求を拒否すべきである。
2 団体交渉は、使用者と労働組合間の交渉である。法は、使用者が雇用する労働者の代表者と規定しているが、それは、要するに、使用者が雇用する労働者が加入している労働組合という意味に解すべきであろう〔組一Ⅰ〕。その労働組合が、その使用者の雇用する全労働者ないしは多数労働者を代表していなくても差し支えないことはいうまでもない。同一事業場、同種労働者に二以上の労働組合が存するとき、そのいずれとも使用者が交渉に応じなければならないことは、使用者にとつて不便なことであろうが、米国のように交渉単位における排他的交渉代表制がとられていない以上致し方ない。
雇用する労働者とは、現に雇用する労働者をいう。被解雇者は含まれない。解雇予告を受けても予告期間満了前の労働者が、現に雇用する労働者であることはいうまでもない。解雇が無効な場合も同様である。
3 拒否の正当な事由
法は、いかなる場合にも、使用者に団体交渉に応ずべき義務を負わせているのではない。使用者は、正当な事由があれば団体交渉の全部又は一部を拒否しうる。主な場合を例示すれば次のとおりである。
イ 交渉の目的物に関して
(一) 交渉の目的物がもともと団体交渉になじまない性質のものである場合
他の使用者と労働組合間の紛争のように、その使用者が処分を持たない事項(同情争議)。
労働条件や労働者の待遇の基準と明確な関連を持たない企業の経営方針、企業の役職員の人事等、使用者に処分権があつても、およそ労働協約になじまない事項。
かような事項に関する交渉は、もともと法の助成せんとする団体交渉ではない。
また、雇入、格付、昇進、昇給、解雇、転勤、懲戒等の個別的人事はその基準ないし処理手続こそ労働協約によつて定めるべきであるが、具体的、個別処理そのものは、協議なり苦情なりによつて解決するのを適当とするから、このような事項は原則として団体交渉になじまないものといえよう。
(二) 労働協約有効期間中、労働組合がその協約に定めるところと矛盾抵触する内容の要求を行つた場合、かような要求は、労働協約の効力を否認し、労働協約の遵守義務、平和義務に違反するから、使用者はこれを拒否しうる。たとえば賃金が定まつているにもかかわらず、賃上を要求した場合、又は別個の手当を要求した場合である。労組法第十七条の場合、少数労働者をもつて組織する労働組合が多数派組合が締結した協約所定事項と同一事項について交渉を申し入れたときも同様である。
しかし、いうまでもないことであるが、次期の労働協約の団体交渉を行うことは、現在の労働協約とは何ら矛盾抵触するものではない。使用者は、その団体交渉を拒否することはできない。しかし、次期協約の団体交渉について、現協約の有効期間中に争議行為を行うことは正しくない。団体交渉は現協約の有効期間中に行つても、争議行為は現協約の失効後に行うべきものである。
(三) 重複交渉
同一の労働者が二以上の労働組合に加入している場合、各労働組合がそれぞれ団体交渉権を有することは前記のとおりであるが、その場合、一つの労働組合と交渉を開始しているときには、その事項につき他の労働組合との交渉を拒否しうる。
右の二以上の労働組合が同時に団体交渉を申し入れてきたときは、使用者は、任意の労働組合と団体交渉すれば足り、他の労働組合との団体交渉を拒否しうることも当然である。けだし、同一の労働者の同一の事項につき、二つの異る労働協約の存在を認める意義はないからである。
ロ 団体交渉の手続に関して
団体交渉を行うに際しては、あらかじめ、いわゆる事務折衝なるものによつて交渉手続が合意されることがある。また労働協約又は協定中には団体交渉手続を定めているものも多い。この場合において、使用者が、かかる所定の手続に反する団体交渉を拒否しうることはいうまでもない。しかし、この手続規定が第三者―別個の労働組合―を拘束しないことはもちろんである。一つの労働組合と使用者の労働協約ないし協定が、他の労働組合を拘束しうるものではないからである。(ただし、組一七、一八の場合を除く。)従つて、唯一交渉団体条項をもつて他の労働組合との団体交渉を拒否することは許されない。更にまた、唯一交渉団体の約定のある場合に、他の労働組合とその使用者とが団体交渉を行つても、使用者は協定当事者たる労働組合に対して協定違反の責を負わない。何となれば、他の労働組合の団体交渉権の否認を目的とする協定は無効であるからである。従つてかような条項は無益といわざるを得ない。
ハ 団体交渉の態容に関して
交渉が喧騒や吊し上げにわたり、不当に長時間の交渉を強要されたり、暴力行為が行われ又はそのおそれがあつて、円滑に交渉を進め難いと認められる場合には、使用者は交渉を拒否しうる。
第六 労働協約
一 (回顧と現状)
1 戦後における労働協約は急速に増加し、現在、締結率にして六五%、適用率にして七八%を示している。しかし、わが国では「協約なければ労働なし」という意識がなく、今なお、無協約状態にあるものが少くない。また労働組合の大部分が企業別組織であるため、これら労働協約も企業別に締結されていることはもちろんである。
2 労働協約の内容についてみると、初期のものは使用者に対する労働組合の権利宣言的なものであつた。即ち、いわゆる法三章式な数ヶ条の抽象的、宣言的な規定を持つにすぎず、その内容は労働組合の基本的権利の確認と、経営協議会を通じての経営参加がうたわれ、賃金その他の労働条件の具体的基準を規定することは稀であつた。こういう行き方がとられたのは旧労組法の規定もさることながら〔旧組二二括弧内〕、賃金については、主として戦後のインフレーションの昂進と低賃金のため、確定した賃金額や安定した賃金体系を規定することが困難であり、かつ、労働者に不利であつたという事情にもよる。
今日では、さすがに賃金に関する条項を持たない労働協約はほとんどないが、未だ肝心の賃金額を規定しているものは極めて少い。賃金額は、通常、総労働者の平均賃金、いわゆるベース賃金の形で決められる。それが労働協約と称されず、賃金協定として結ばれていることは周知のとおりである。この協定からは個々の労働者が具体的に幾何の賃金を得るかが明らかとなつてこないため、労働協約の規範的効力は、これを求めうべくもないことが多い。また賃金以外の労働条件についても、初期の労働協約は具体的な規定を持たなかつたが、労働基準法が指針となつて、次第にかなり詳細な規定を備えるものが多くなつてきた。
これに対し、労働組合と使用者との関係などいわゆる債務的な規定はかなり詳しい。これは、労調法の法律によつて奨励されていることにもよる〔調二、一六、一八2、三〇2、三五〕。
法三章式な権利宣言から出発したわが国戦後の労働協約は、漸く内容を整えてきたとはいえ、未だ必ずしも、本来の機能を充分に発揮しうるような労働協約を締結する慣行ができたとはいえない段階にある。
二 (労働協約の意義)
1 労働協約とは、労働条件、労働者の待遇に関する基準等、労働者と使用者との関係を規制するための労働組合と使用者(又はその団体)との間の約定である〔組一Ⅰ、一四、一六〕。
既に何度も述べてきたように、自由経済の下においては、労働条件は労使間で決定されるべきものであるが、それは、労働組合と使用者間の労働協約によつて集団的に決定されることによつて実現される〔組一Ⅰ〕。法は、この集団的決定―労働協約に、個別的決定―労働契約に優先する効力を付与し〔組一六〕、実質的な労使対等の労働条件の決定を担保する。この意味においては、労働条件の決定を個々の労働者と使用者間の契約のみによらしめ、事実上使用者の一方的決定にゆだねる場合と比較すると、労働協約が労働者の利益のための制度であることは明らかである。
しかしながら、労働協約は決して労働者のみの利益のためのものではない。労働協約は協約有効期時中の労使関係を集団的に規制し安定せしめて、企業の平和維持を約束するものであり、使用者もこれから利益を受けること極めて大なるものがある。
2 労働協約は労働条件を集団的に規定するものであつて、この点においては就業規則と同じであるが、就業規則が結局においては使用者の一方的決定であるのに対し、労働協約は労使の合意による決定である点において根本的な差異がある。また、合意約定である点においては契約と同じであるが、集団的な合意であり、かつ、協約当事者が当事者以外の者の権利関係を有効に規制しうるという点において、決定的な差異がある。
けだし、実質的に労使が対等の立場で労働条件を合意決定するものは労働協約を措いてない。そこで法は、労働協約に対して、労働契約、就業規則に優先して使用者と労働者との関係を規制する効力を付与する。即ち、協約適用範囲内の労働者は、労働契約、就業規則の如何にかかわらず、労働協約に定めるところに従つて、使用者に対し権利を有し義務を負うのである〔組一六〕。かかる効力を労働協約に付与することによつて、労使対等の交渉による労働条件の集団的決定の効力が担保されるのである。
労働協約には、右の如き賃金その他の労働条件、労働者の待遇に関する基準等、使用者と労働者との関係を規制する条項(いわゆる規範的条項〔組一六〕)のみならず、労働組合と使用者間のみの権利義務を規定する条項(いわゆる債務的条項)をも含むのが通例である。法もこれを予想している〔調二、一六、一八2、二八、三〇2、三五〕。しかし、債務的条項のみの「協約」は、労働協約として特に一般の契約と異なる名称を冠し、異なる法的要件(書面により署名又は記名押印〔組一四〕)を求め、異なる法的効果を認め、あるいは一定の制約を加える(有効期間、解約手続〔組一五〕必要も根拠もない。従つて、たとえ労働組合と使用者間の約定であつて書面に作成され、署名又は記名押印されていても、債務的条項のみであつて規範的条項を含まないものは、これを労働協約と称しても、真の労働協約としての機能を果すものとはいえない〔ILO勧告九一号Ⅱ2〕。たとえば、労使間の組合事務所の使用貸借又は賃貸借のとりきめは労働協約と称しても一般の契約と何ら異なるところはない。
繰り返していえば、賃金その他の労働条件、その他労働者の待遇に関する事項に関する規定のあることは労働協約の要であつて、法もこれを予定しているといえよう〔基二、二四、九二、基則二、一六、調三四、公労八、地公労七、船員九六Ⅰ、船員則四一Ⅱ、四六Ⅰ、五四の四、職安三、職安則三、法人税則一五の七Ⅱ・Ⅲ、一五の一四、所得税則一〇の一六Ⅰ・Ⅱ、一〇の二Ⅰ4、一〇の二二Ⅰ・Ⅱ、一〇の二三、労働省設置四14・28、組七1、一六、一七、一八、組令一五〕。
3 労働協約は集団的労使関係の安定を約束するものである。しかし、今日、労働協約の有効期間中に、協約所定以外の事項について要求を行い、要求が容れられないときには争議行為をもつてしてもこれを貫徹し、別個な協約ないし協定を締結することの是非については、ほとんど反省がなされていない。つまり、労働協約の平和義務ということに対して異論を唱えるものはないにもかかわらず、実際においては労働協約を単なる労使間の合意の型にすぎないものとしか考えないことによつて、労使関係の安定を著しく害している。ある事項について労働協約を締結した場合に、その有効期間中に他の事項についての団体交渉を認め、これについて争議行為を是認するとしたならば、いうところの平和義務は、全く担保されず、何ら協約期間中の産業平和を約束することにはならない。
たとえば、労働組合が賃金を労働協約で定めた場合には、特別の留保がない限り、協約及び就業規則によつて定められている条件において、その賃金で組合員の就業を約束し、協約有効期間中はそれ以外の要求を行わないとの合意とすべきであろう。
労働協約が、その有効期間中の産業平和と円滑なる業務の運営を約束するものたらしめるためには、ばらばらの労働協約を締結せずに一本化した体系的な労働協約を締結し、これにその有効期間中に予想される一切の問題点を網羅することに努めるべきである。使用者が労働組合の要求を容れるのは、これを容れることによつて将来の産業平和が約束されるからである。もちろん、協約有効期間中に、新たに色々の問題が生じ、これを労働協約に盛り込む必要を感ずることもあろう。それが争いなく円滑に実現するならば別段問題はないが、意見が対立し、争議行為に訴えなければならないような場合には、次期の協約改定の時に要求すべき筋合のものである。
諸外国においては、労働協約は原則として一本化され、すべての問題は、協約更新期に集約的に論じられている。
三 (労働協約の効力)
英国においては、労働協約は単なる紳士協定であつて、法的効力を云々する余地はなく、協約内容の遵守実行は、全く両当事者の意思にゆだねられている。いいかえれば、それは全く労使の信頼関係の問題である。しかし、わが国において労働協約は法的効力を付与されている。
しかも、それは個々の契約に優先する強い効力である。しかる以上、相手方が任意に労働協約を履行しない場合には、通常の権利行使と同様、裁判所によつて履行を求めるべきであつて、もし常に争議行為に訴えるとしたならば、労働協約に対して法的効力を認める意義は著しく減殺されてしまうであろう。
1 労働協約が前記の効力を持つためには、法は、労働協約が書面によること及び両当事者が署名又は記名押印することを要件とする〔組一四〕。書面は単なる労働協約の証拠方法にとどまらない。これを欠く場合には、労働協約の効力はない。けだし、その効力が多数の関係者に及び一種の法規の如き役割を演ずる以上、その解釈を当事者の意思にゆだねることを可及的に限定し、内容を固定化し、明確を期する必要があるからである。
2 規範的効力
労働協約の労働協約たる所以は、労働組合と使用者との合意によつて、労働者(組合員)と使用者との関係が規制される点にある。即ち、労働条件その他の労働者の待遇は、個々の労働者と使用者間の労働契約及びその使用者の定める就業規則の有無及びその内容の如何にかかわらず、労働協約所定の基準の定めるところによる〔組一六、基九二、九三〕。労働者は、協約所定の労働条件において協約所定の賃金、待遇を請求できる。
労働協約に定める労働条件が最低基準であると解される場合は別であるが、しからざる限り、労働協約の基準を上廻る労働契約は、その部分において無効である。しかし、労働者が使用者から労働協約の基準を上廻る賃金を受け取ることは妨げない。労働者はこれを契約上の権利として請求し得ないまでである。
3 債務的効力―実行義務、平和義務
労働協約の合意である以上、前記の効力のほか、協約当事者を拘束する。条項によつては、前記規範的効力を有せず、単に協約当事者しか拘束しないものもある。いわゆる労働協約の債務的条項は、通常の債権債務関係のみを生ずる。
規範的条項についても、当事者は相手方に対してこれを遵守実行する義務を負うと解すべきである。旧労組法第二十一条「労働協約締結セラレタルトキハ当事者互ニ誠意ヲ以テ之ヲ遵守スヘキモノトス」との規定は当然の事由を明らかにしたのであり、かかる規定を欠いた現行法においても変りはない。もつとも、基準法第二条第二項は、旧労組法第二十一条と同様の趣旨の規定を置いている。
いわゆる平和義務として論ぜられているものもこれである。即ち両当事者は、協約有効期間中は、協約所定の基準ないし約束と異なる要求をなし、団体交渉を求め、争議行為を行つてはならない。労働協約によつて労働時間が定まつている場合、これを短縮する要求を行い、労働協約によつて賃金が定まつている場合、その額を上廻る賃金を要求して争議行為に出れば、それは労働協約の平和義務に違反すること明らかであろう。或る要求が協約の規定と抵触するか否かは、十分慎重に検討しなくてはならない場合がある。たとえば、賃金については、労働協約が存在しても、これとは別に越年手当、夏季手当等の要求を行うことは慣行化しているもののようであるが、この点から深く再考を要する。また退職金に関する労働協約の規定は、一定の解雇の場合、使用者は一定の退職金を支払わねばならず、労働者は一定の退職金を支払われるならば所定の基準に基いた解雇を承認するという合意とすべきであつて、特別の事由により解雇の合法性を争う場合は別として、解雇そのものを争つたり、所定退職金を上廻る手当を要求したりすることを禁ずるものとすべきである。解雇のたびごとに、解雇そのもの、あるいは退職金の額など退職条件が争議行為に訴えてまで争われるとしたなら、退職金に関する労働協約の規定は使用者によつて無意味というほかはない。
4 以上の効力のほか、法は、一定の場合、労働協約にいわゆる一般的拘束力と地域的の一般的拘束力を認めている〔組一七、一八〕。この規定については、今日まで現実の問題となつたことは少ないので、ここではふれない。
5 有効期間
労働協約の有効期間には、有期、無期及び期間後無期の三種がある。
有期の期間はいずれの場合も三年以下に限られて、その期間中は労働協約を解約することはできない。無期限の場合には、九十日の予告期間をおいて解約できるが、解約は要式行為である〔組一五〕。解約は将来に向つて労働協約の効力を失わしめる一方的行為である。
第七 争議行為
一 (回顧と現状)
1 労働者数も、組織労働者数も、わが国とほぼ同じで、しかも戦後の混乱と産業の破壊についてもほとんど同様の状況にあつた西独に比べて、戦後におけるわが国の争議行為は、まことに激しいものであつた。しかし、それも昭和二十七年後半を頂点として下り坂となつてはきたが、その後においても、曰く尼鋼、曰く日鋼室蘭、曰く近江絹糸と激烈な大争議はなお跡を絶たず、また、いわゆる春闘が大規模に展開されてきたことは周知のとおりであろう。
2 争議の目的を見ると、もちろん賃上が主位を占め、時としては人員整理反対が大きな割合を占めていた。しかし、経営及び人事に関するものも少くないし、労働法規改正反対や破防法制定反対といつた政治ストも稀ではなく、更に賃上等を求めつつも、実は政治目的に主眼をおいたストライキも企てられた。要するにストライキは、賃金その他の労働条件等にかかわりなく、労働者のあらゆる要求を貫徹すべき万能の武器と考えられてきたといえる。また、ストライキは組織強化の試練であり淘冶であると考えるものすら少くなかつた。
3 争議行為の形態を見ると、終戦後の混乱期においては生産管理が花形であつたが、逐次、ストライキ一本となり、更にその形態は経済の復興、生産の活溌化に伴う経営者側の建直り、組合財政の未確立に原因して、最少の損害で最大の打撃を与えようということで、いわゆる波状スト、時限スト、あるいは部分ストが流行し、これに対し、使用者側はやがてロックアウトをもつて対抗するのが一般化するに至つた。
4 ストライキは、一般に労務の不提供という不作為よりも、むしろ文字どおりの闘争と考えられ、職場占拠はもちろん、旗を振り、歌を唄い、ピケツテイングと称して人垣をつくり、デモを行うのが慣例化し、また暴力的行為を伴うことが日常事となつていた。この暴力的傾向は、時と共に改められてはきたが、今日なお、必ずしも完全に払拭されているとはいい難い。これに対応してロックアウトも、職場から労働者を物理的に追い出すことが中心問題と考えられてきた。
5 労働組合の欲するところ、目的、形態、手段を問わぬかかるストライキは、厳しい世間の非難を招かずにはおかなかつた。昭和二十二年の革命騒ぎの二・一ゼネストをはじめ公務員を中心とするストライキは、結局、公務員及び公共企業体等職員のスト制限となり、昭和二十七年後半において頂点に達した積年の電産スト等の結果は、いわゆるスト規制法の制定となつた。かくて昭和二十二、三年頃のストライキの中心であつた国鉄、官公庁、電気事業等においては、今日、いずれも争議行為を禁止ないし制限されたことは周知のとおりである。また、かような無軌道なストライキは、単に世間の非難を浴びただけでなく、労働組合自らの分裂を招き、企業の崩壊をきたすなど、労働者側自身に重大な不利をもたらしたことも少くなかつた。
二 (ストライキ)
1 ストライキの意義
ストライキ(同盟罷業)とは、多数の労働者が一定の目的を達成するため計画的に共同して労務の提供をやめることをいう。
イ ストライキは法的に認められている。しかし、その理由と限界については正しい理解を持たなければならない。
自由経済の下においては、賃金その他の労働条件は、国家ないし第三者によつて決定されるのではなく、労使間の団体交渉を通じ労働協約によつて集団的に決定する制度が認められている。法に基き争議に対して国家が介入する場合においても、労使の意思によらずに賃金その他の労働条件が決定されるということでない。(政府及び政府に準ずる企業における場合を除く。)
しかる以上、労働協約締結のための交渉、即ち団体交渉の行き詰まり、決裂の場合においては、ストライキは、これを打開する途として予想され、制度上不可避なものとして承認されなければならない。この労使の自主的決定の最終担保として、ストライキを認めざるを得ないのである。即ち、ストライキにより労使双方が夫々失うところと得るところとを勘案して、はじめて相互の主張の妥結点を発見することができるのである。
ストライキは、団体交渉の窮極にあるものである。法は決してストライキを階級闘争の武器として是認しているのではない。また労働者、労働組合の要求の実現を目的とする限り、無制限に是認するというものでもない。それは、目的が賃金その他の労働条件の集団的決定に関して行われる限り、しかも手段方法が公共の福祉に反しない限りにおいて是認されるのである。
かかるストライキは、賃金その他の労働条件の集団的決定制度の不可分な一環をなすものであり、単なる自由の域を超えた制度として認められるのである。従つて、それ自体は民事及び刑事責任を論ぜられるべきものでない。それは、まさに労働組合の正当な行為である。法は明文をもつてこれを規定するが〔組一Ⅱ、八〕、それは当然なことを確認した規定にすぎない。諸外国において、かかる免責規定の立法例は稀であるが、正当なる争議行為に、民事及び刑事責任を負わしめるところがないことをもつてみても明らかである。
しかし、それは、かかるストライキそのものは、制度上労働組合の正当な行為の範疇に属し、民事、刑事の免責を受けるというにすぎないのであつて、現実にかかるストライキがあらゆる点において労働組合の正当な行為であるというがためには、後で述べるようなストライキに対する制限法規はもとより、労働協約、組合規約にも違反することなく、また暴力行為その他の不法行為を伴うものでもないことを必要とする。いずれかの点において違反があれば、それ相応の責任を生ずるのはいうまでもない。(ストライキと労働契約違反との関係については、わが国では掘り下げた検討がないが、一応、正当なストライキにおいてはこれを論ずる余地がないというのが社会通念となつているようなので、これに従つておく。)
なお、以上はストライキ自体についての問題であつて、ストライキに参加した個々人の行為については後に述べる。
ロ ストライキは、利潤を喪失せしめるなど使用者に対する経済的圧力であるが、同時に労働者にも賃金を失うなどの損害を生ぜしめるものである。労働者としては、その損失はストライキによつて達成される賃上その他の労働条件の改善により補償されると考えて、あえてストライキを行うのであるが、ストライキを行うことは、決して直ちに賃上その他の労働条件の改善を意味するものではない。労働者はストライキの危険を負担しているのである。ストライキを行つても目的を達成し得ず、賃金を失い、労働組合の資金を涸渇せしめるだけに終ることもある。そればかりか、企業を不振に陥れ、極端な場合には企業の崩壊を招き、そのため、使用者のみならず労働者自身の重大な損失を招くことすらある。従つて、ストライキを行うには、かかる負担をなすべき組合員の総意によるべきものである。労組法が、労働組合の規約に、ストライキは組合員又は組合員の直接無記名投票により選挙された代議員の直接無記名投票の過半数による決定を経なければ開始しないことという規定を掲げることを要求しているのはこのためである。〔組五Ⅱ8〕。法は、有効投票の過半数❜❜❜による決定でストライキが開始されるべきことを規定しているのであつて、組合員の過半数❜❜❜の賛成を求めてはいないことに留意すべきである。いいかえれば、法の要件に適合したストライキは、必ずしも全組合員の大多数の支持を受けたものではないのである。この法の要求は、あくまで最低限であり、整々たるストライキを貫徹するがためには、定足数を引き上げることが望ましい。法の求める最低限の条件をみたしたからといつて、全組合員の過半数の支持もなく、軽々にストライキに入ることは、決して組合員にとつて幸なことではない。いわんや、ろくろう団体交渉もしないうちに、あらかじめストライキの投票を行つて「スト権を確立」し、実質的には組合執行部の独裁をきたすが如きことは、労働組合の民主性に反することはなはだしい。
ハ 労働組合の決定によらざるいわゆる山猫ストは、制度としての正当なストライキでないことはもちろんである。団体交渉、労働協約の主体は労働組合である以上、ストライキが労働組合の意思に基くべきことは当然であつて、しからざるストライキは、組合内において正当といえないばかりか、使用者に対する関係においても同様である。もちろん、職場を組合活動の一単位とすることはあり得よう。そのこと自体は、何ら不当ではない。しかし、それとストライキとは別個の問題である。職場の問題は、しかるべき正規の手続きによつて解決を図るべきであつて、一部の組合員が独自で争議行為に訴えるということは、労働組合の否定であり、労働組合、団体交渉、労働協約というメカニズムを無視するものであるといわなければならない。山猫ストは、労働組合の最大の恥辱の一つである。労働組合は、山猫ストの発生をできる限り防止し、また発生したときには、当該労働者をすみやかに職場に復帰せしめ、労使双方の損害をできるだけ局限することに努めるべき義務を負う。
ニ ストライキは、多かれ少かれ公衆に迷惑を及ぼす。従つて国としては、これを放置しておくわけにゆかないので、労調法を制定して公共の福祉に影響を及ぼす度合の強弱に応じて調整機関の介入の程度を定め、ストライキの予防、解決に努める。しかし、労働条件は労使の自主的決定に委ねている以上、国家の機関による調整も労使の自主的意思に基いて行われることを原則とする〔調二〕。
公益事業のストライキは性質上公衆に迷惑をかけることが不可避であるから、法はストライキの予告義務を定めるばかりでなく〔調三七、三九、調令一〇の四〕、必ずしも両当事者の意思にかかわりなく調停が行われることを規定している〔調一八3・4・5〕。ましてや、現に公共の福祉に重大なる支障を来す大規模なストライキなどの場合には、緊急調整が行われ、一定期間争議行為が禁止されることになつている〔調三五の二、三五の三、三八、四〇〕かくしても公衆の迷惑を防ぎ得ないストライキ、たとえば電気の供給に支障をきたすストライキは絶対的に禁止されている〔スト規二〕。
また人命の危険を生ぜしめたり、資源の滅失等破壊的効果をもたらすストライキが禁止されていることはいうまでもない〔調三六、スト規三〕。
ホ いうまでもないことであるが、世間に行われているストライキのすべてが、制度としてのストライキではない。なるほど労働者も労働組合も制度以前の行動の自由を有する。労働者が個別的に、又は集団的に労務の提供を拒否したり、あるいは退職したり怠業したりする行為一般を、法は特に禁止していない。もともとストライキは自然的行動の自由として行われてきた。(もつとも更にそれ以前は、実質的にストライキが禁止されていた時代もあつた〔治警一七〕。)
労使間の集団的な労働条件の決定が全く放任されていた時代から、進んで集団的な労働条件の決定が制度として認められるに従つて、その範囲内のストライキも制度として認められるに至つたのである。かくて、制度にまで高められたところのストライキは、その範囲において正当なものと評価されるのである。
しかし、それ以外のストライキ、たとえば政治ストも行われることがある。それが直ちに違法な行為となるとは限らないが、制度として認められるストライキとは、全く性質を異にするものであつて、何ら免責や保護を受けるものではない。
ヘ 権利の行使、義務の履行、法令又は労働協約、協定、就業規則、契約の解釈適用等に関する、いわゆる権利争議は、賃金その他の労働条件等の決定をめぐる利益争議とは、性質上画然と区別される。それは、当事者間での話合いや、紛争解決機関による自主的な解決がつかなければ、最終的には裁判所、労働委員会等の国家機関によつて解決しうる性質のものであつて、争議行為を必然としない。もし労働協約の解釈適用について、直ちにストライキを行うとしたならば、労働協約の平和義務は全く無意味なものとなつてしまうであろう。
もつとも、裁判所、労働委員会等の事案処理は、長大な時間を要し、早期解決を必要とする労働紛争の解決に不向であるから、かようなストライキを認めなければならないという主張も存しよう。そして、この主張には傾聴すべきものがあり、将来の重要な研究課題であると考えられる。しかしながら、かかる機関が事案処理に長大な時間を要する現状については、労働者側にも少からぬ責任があると考えられる。即ち、当事者は、一応はかかる機関に事案を持ち込んでも、実力行使を一向差し控えないのみならず、法廷闘争は実力闘争の補助手段であるという態度すらとつている。権利争議についてこのような態度で実力闘争に訴えるとしたならば、公権的機関の努力は、何ら最終的解決をもたらさず、むしろ、単に火中の栗を拾う役割しか与えられないことになる。とすれば、かかる機関が迅速な処理解決をしないという前に充分な反省が必要であろう。
2 ストライキに随伴する行為
ストライキは、労働者の集団的な労務の提供の拒否をいう。即ち、不作為がその本質である。
この限りにおいて、組合員が正当なストライキに参加することは「労働組合の正当な行為」であつて、民事、刑事の免責を受ける。集団示威を行つたり、貼紙をしたり、歌を唱つたり、ピケ・ラインを張つたりするようなストライキに随伴する行為は、わが国においては極く普通のことであるように考えられているが、ストライキに本質的なものではない。ストライキが制度として認められているのは、労務の提供の拒否としてであつて、これに随伴する行為は、一般的に、特に禁止もされていないが、別段、制度として是認されているものでもない。従つて、ストライキの手段として行われたからといつて、それが当然の正当性を主張しうるものではないのであつて、他の法益を侵害するときには違法の責を免れない。かような行為は、労働組合の指令によるものであれば、労働組合のその責を負わなければならない。労働組合の指令によらずして、不法行為が発生し、又は発生するおそれがあるときには、労働組合はこれを抑止すべきであり、尽すべきを尽さずして不法行為が生じたときには、労働組合自身の責任を生ずることであろう。「応援団体」の行為についても同様である。
ストライキ自体が正当であるということは、ストライキに参加した個々の労働者の行為や手段の不当なものまでも正当化するものではない。遺憾ながら、今日においても、労組法第一条第二項を誤解ないし曲解する向なしとしない。なるほど、場合によつては、ストライキに参加した個々の労働者の行為であつて刑罰規定に該当するものが、あるいは情状によつて不問に付され、あるいは期待可能性とか緊急避難の法理によつて犯罪とされないこともあろう。しかし、これをもつて、ストライキ自体が正当である限り、これに参加した者の個々の行為のすべてが刑事免責を受けるのが原則であるというような一般論を立てることの誤りであることは説明するまでもない。
国家が、犯罪に眼を閉じてまでストライキを保護助成する必要は毛頭ないのである。
暴力の行使がいかなる場合にも正当でないことは、法の宣言するまでもないところである〔組一Ⅱ〕。かような規定を作らなければならなかつたのは、昭和二十四年以前の悲しむべき実情に基く。暴力の行使が正当でないことは、今日では、もはや争のないところと思うから、ここでは詳しく述べない。争議目的を達成するには必要な手段であつて暴力でないならば正当であるという論もはなはだしい誤りである。たとえば、ストライキを継続するための資金の調達に必要だからといつて、会社の資材を無断で持ち出して売却したとしたら、何人もこれを正当だとはいわないであろう。
ストライキに随伴する行為として最も問題になつているのはピケツテイングである。これについては、既に次官通牒(労働関係における不法な実力行使の防止について労働省発労第四十一号昭和二十九年十一月六日各都道府県知事宛通牒)も出されたところであるから詳述はしないが、ピケツテイングはストライキのための見張りであり、それ自体は何ら不当ではなく、また、ピケ員による平和的説得も許された行為といえる。
ところが、わが国におけるいわゆるピケツテイングは、欧米において違法とされている集団による通路の閉塞、封鎖が通常である。しかしながら、平和的説得は、説得を諒とした者は入場をやめるが、説得に肯じない者は自由に出入りできるということでなければならないのであつて、通路を閉鎖し、あるいは労働組合の発行する通行証を持たない者は通行させないという状態においては、もはや平和的説得を論ずる余地はない。通路の物理的閉鎖は暴力の行使と同様に評価すべきであつて、到底これを正当というわけにはゆかない。
三 (ロツクアウト)
1 ロツクアウトとは、使用者が労働争議において多数の労働者の受領を拒否する行為である。
ロツクアウトも、関係労使に損害を生じ、公衆に迷惑をかけ、国民経済に悪影響を及ぼすものである。従つて、法はこれに一定の制限を加え、場合によつてはこれを禁止し、また可及的にその発生を予防し、ロツクアウトが発生し、又は発生せんとするときには争議を調整してその解決に務めているなどストライキに対するのと同様である。
しかし、ストライキが制度として容認しなければならないことは、前述のとおりであるが、これと同じ意味で、ロツクアウトをも制度として容認しなければならないとはいえない。従つて、法は、ロツクアウトについては、ストライキの場合と異なり、免責の規定をおいていない。即ち、賃金その他の労働条件について紛議が生じ、労働協約が締結されない場合には、就業規則や労働契約により、その主張するところの賃金その他の労働条件で労務の提供を受ければよいのであつて、労働者側が、より高い労働条件を希望し、又は労働条件の切下げに反対していても、現実の労務を提供している限り、ロツクアウトしなければならない理由はない。労働者が自ら希望する労働条件でなければ労務を提供しないというならば、それは、労働組合がストライキを行うべき筋合のものであつて、使用者が単に自己の主張を貫徹でせんがために積極的、攻撃的にロツクアウトを行うということは、ストライキについて認められる制度的必然性を持つていない。
しかし、労働争議において、使用者としては労働組合の出方如何をまつのみで、いかなる場合でも労働組合の争議行為に対しては、ただこれを拱手傍観するほか許されないとしたならば、法の目的とする賃金その他の労働条件の労使対等の決定ということに衝平を欠くこととなろう。
ことに、わが国の労働組合は、最小限の損失をもつて最大の効果を挙げうるために、しばしばいわゆる部分スト、時限スト、怠業(遵法闘争)等の手段をとつている。
部分ストや怠業の場合には、労務の提供の部分的拒否より、操業は全面的あるいは重大な部分において停止又は低下し、たとえ形式的には大部分の労務の提供が行われていても、その労務は、著しく価値を減少し、又はその利用がほとんど不可能となる場合が少くない。このような無価値又は著しく価値を減少した労務を受領し、これに対して賃金を支払うことを使用者に期待し、これを強制すべき根拠はない。
また、このような争議行為の場合には、組合側が、これによつて生産の開始又は終了のキイを握ることにより、経営のイニシアテイブを奪い、全体として一種の生産管理と考えられる場合もある。
かかる場合におけるロツクアウトが正当であることは言をまたない。
ロツクアウトは、雇用継続のまま行われるのが普通であるが、解雇という形によることもできよう。
2 正当なロツクアウトにおいては、ロツクアウトは意思表示のみをもつて足り、閉出しという事実行為は必要としない。労働組合及び個々の労働者に対し労務の受領を拒否する意思を表示すれば、使用者は賃金支払の義務を免れる。
四 (争議行為の予防と解決)
争議行為は労使に損害をかけることはいうに及ばず、公衆にも迷惑をかけるものであるから、できるだけこれを回避するように努めなければならない。労調法は、労働争議を誠意をもつて解決すべきことを労使双方の責務と定めて、争議の自主的解決という大原則を明らかにしている〔調二〕。労使の実情に即した争議の円滑な解決を図るためには、労使の合意により、自主的な調整機関を設定するのが望ましいといえよう。この点についてはわが国の労使慣行は未熟というほかはない。今後、大いに考慮すべき問題である。ことに、自主的仲裁機関は、争議を迅速円滑に解決するには最も適しているにもかかわらず、ほとんど顧られていない。もつとも、かような特別の機関は、或る程度安定した労使関係が確立されていなければ、これを設置運営することは無理かもしれない。そこで、これが無理であるところでは、少なくとも、両当事者の合意により争議を労働委員会の調整に持ち込むべきである。労働委員会の処理は、必ずしも両当事者に完全な満足を約束するものではないかも知れない。しかし、労働委員会自らの努力はもとよりであるが、労使の労働委員会の調整を極力尊重し、これを権威づけてゆくことが争議の合理的解決の慣行を樹立する上において極めて重要なことである。
わが国の労働委員会は、労、使、公益の三者構成をとつており、それぞれの立場の意見が綜合されて最も妥当な結論が得られるものと考えられるのであつて、この労働委員会の調整により、労使自体の原則は最も円滑効果的に担保されるものといえよう。労働委員会を無視して、「自主的解決」ということにことよせ、いたずらに力と力によつて決せんとするときは、労使の傷つくことはもとより社会公共にも大いなる損害を与えることとなり、結局、労使自治の根本を危くするものといわなければならない。